第130号(2021年春号)『東日本大震災から10年』ほか
東日本大震災から10年
東日本大震災から10年が経過し時の速さを実感しています。
震災から数か月後、補償コンサルタント協会本部から被災地視察の機会を得ることができました。その視察で被災地のあまりにも悲惨な状況に、また多くの方々が命を亡くしたその現場を目の当たりにし言葉もなく、あまりの衝撃に手にしていたカメラのシャッターを一枚も押す事はできませんでした。
建設関連業に携わっている私自身、この被災地の復興に少しでも貢献できればという思いを強く抱いて名古屋に帰りました。
しかし、会社へ帰っても土地勘もない遥か遠くの東北への復興参加に同意する者は少なく、結局は他人事というのが正直なところでした。
そんな時に釜石市から技術応援の話があり、応援のつもりで現地入りした弊社職員が期限を過ぎても本社の名古屋へ帰らず、復興業務継続を希望したのが新日の復興支援の発端となりました。
こんなことがきっかけとなり、釜石市への復興業務参加の気運が社内に拡がり、次には環境省中間処理施設建設の『総合支援業務』や『土地建物調査業務』、更には福島県復興CM業務の参加へと発展拡大していきました。
そして、復興業務担当者は情熱と使命感を持って、現在でも尚、復興CM業務に取り組んでいます。
現在の技術では、巨大地震予測は困難と言わざるを得ませんが、中部地方では今後30年間に80%以上の確率で東南海巨大地震が発生すると言われ続けています。中部の私達からすれば、明日は我が身と覚悟して震災復興業務に取り組んでいかなければなりません。
今回の補償ミニコミでは、東日本震災から10年を機に「復興支援」を特集しました。
東北での7年間を振り返って
東日本大震災後、私は平成23年4月に茨城で地震保険の家屋被災度調査、翌年の平成24年8月には東電の財物賠償査定業務(東京有明事務所)に携わりました。その後、平成24年9月~10月に福島県双葉郡楢葉町にて原発事故を受けた家屋等の除染説明業務を行いました。
平成26年度からは復興事業に携わることになり、平成26年4月~11月に岩手県釜石市において市の復興整備事業に係る建物等調査算定業務、平成26年12月~平成27年3月に宮城県石巻市で都市計画道路の新設に必要な用地取得CM業務、平成27年6月~令和3年3月まで福島県相双建設事務所で河川・海岸堤防築造に必要な用地取得CM業務を行ってきました。用地取得に関する様々な課題、その課題を解決する手法、考え方を学びました。
また、令和3年4月からは同じ福島県相双建設事務所で、相馬市内の河川改良に必要な用地取得CM業務を行っています。こちらは令和元年東日本台風等の災害復旧事業です。河川の改良としては流水量を増やすための河道掘削や堤防強化を実施するものです。
実は私も現在住んでいる相馬市で、あわや床上浸水という事態に直面しました。令和元年10月25日の大雨により相馬市内に流れる宇多川と小泉川が一部決壊したためです。私の住んでいるアパートの近くを小泉川が流れていて、夜中に窓から外を見ていたら、アパート周辺の道路が川のようになり駐車場もみるみるうちに水嵩が増え地面から40㎝程度までになりました。幸いアパートは浸水の被害は免れましたが、市内の所々では床上、床下浸水の被害があり、家屋の中から泥を掻き出したり、水に浸かったものを乾かしたりしていました。川の方は、上流から流れてきた土砂が川底に堆積していました。
私も東北へ来てから7年経ちますが、震度6強の地震、台風による断水等の経験をしました。また、この1年間はコロナによる生活の不自由さも感じています。今後も大災害、ウイルスの感染等が繰り返されるものと思われます。今はITの技術が発達しており、仕事においても、生活においても、大変便利になりました。ところが大災害が起これば、たちまち私たちの生活の基盤は壊されてしまいます。
近年は所有者不明の土地、未利用の土地が全国に存在しており、全部かき集めると九州全土よりも広い面積になるそうです。この土地を災害時の避難場所、津波や洪水に備えた高台移転のエリアにすることも有効活用の一つであると思います。しかし、こういった土地を取得し利用するためには様々な課題があります。この問題に対処すべく法律の一部が平成30年に施行されましたが、この土地問題を解消するためにはまだまだ必要なことが多くあります。
私は東北に来て用地補償等、様々な事を勉強させていただきました。私もあと何年現役で頑張れるか分かりませんが、少しでも世の中の役に立てればと切に思っております。
復興事業に携わって
【釜石市の復興事業】
東日本大震災から10年。私たち㈱新日が岩手県釜石市で取り組んできた釜石市中央ブロック復興整備事業は、令和2年3月末をもって完了し、釜石市の宅地、道路、居住施設等、インフラの整備はほぼ完了したことになります。
しかし、被災された方々の心と生活の再建、コミュニティの形成等は、まだまだ復興したとは言い難い部分があります。釜石市に震災前の豊かで穏やかな暮らしが1日も早く戻ることを心から願うばかりです。
【帰還困難区域の復興事業】
東日本大震災の被災地のなかには、福島第一原子力発電所の事故のため、帰還困難区域に指定され、未だに復興事業が進んでいない地域があります。福島県双葉町もそんな地域のひとつで、全町を帰還困難区域に指定されました(令和2年3月4日に一部解除)。弊社は令和2年11月から双葉町の「双葉駅西側第一地区一団地の復興再生拠点市街地形成施設事業」に必要となる街区確定資料等を整備するために、街区確定他測量業務(UR都市機構発注)に取り組んでいます。
この事業は、東日本大震災及び原発事故で大きな被害を受けた福島県双葉町において、各地に避難している町民の早期帰還を目指し、帰還困難区域であるJR双葉駅西側に、住宅団地と生活関連サービスの提供に向けた環境を整備するものです。この地区は、特定復興再生拠点区域であるため、令和2年3月4日に立ち入り規制が緩和されています。また、この地区に接する双葉駅と駅東側に位置する駅前広場等については、JR常磐線の開通に合わせて駅を使えるようにするため、同じ日に避難指示が解除されました。
弊社は事業に必要となる土地の確定成果や土地登記申請資料を作成するために、事業区域23haについて地区界測量、街区及び画地確定測量(計算、埋標)、境界測量を実施します。地区界測量では、事業区域を明確にするため、隣接地所有者と境界確認のうえ、地区界の位置に永久標を埋標し、地区界の位置、形状及び事業区域の面積を算出します。確定測量では、工事着手に先立ち、整備する街区の形状を定めるため街区及び画地確定測量(計算)を行い、工事完成後に街区点及び画地点に金属プレートを設置し、座標、街区と画地の形状及び面積を確定します。
当事業は、双葉町の復興再生の重要な拠点として注目されていることもあり、業務全般を通して非常にタイトな工程となることが予想されます。業務遂行にあたっては、発注者、設計会社、施工会社との連携と情報共有に特に留意し、スピード感を持って柔軟かつ確実に取り組んでいきたいと考えています。
復興事業での経験
東日本大震災から10年が経ちましたが、私は震災4年目からの3年間復興事業に携わりました。1年目は岩手県釜石市で8ヶ月間、宮城県石巻市で4ヶ月間勤務し、2年目からの2年間は福島県南相馬市で勤務しました。
岩手県釜石市での業務は、津波で浸水した住宅地を盛土して高台に造成する事業で、主に携わった業務は土地を買収する用地交渉、所有者が亡くなっているが相続登記がされずに今日まで至っている所有者の権利調査追跡作業でした。
宮城県石巻市では、第二堤防の役割を担う都市計画道路事業のCM業務(コンストラクションマネジメント)に携わりました。この業務は、すでにJVを組んで事業監理と設計監理を行っていたところに、用地監理も必要ということで用地測量、物件調査、用地補償総合技術業務の進捗監理を行いました。
福島県南相馬市では、河川・海岸事業のCM業務に携わりました。この業務も用地監理が必要ということで、新地町から双葉町の間で32の河川・海岸事業が対象でした。ここでも発注している委託業務の監理で、権利調査追跡業務、用地測量、物件調査、用地補償総合技術業務、事業認定申請図書作成業務及び収用裁決申請図書作成業務を監理していました。また、用地買収が終わっていない状態で工事発注もされているので、優先して工事を行う箇所を事業課と情報共有して工程管理も行いました。
東北での勤務を終え、震災6年後から本社での勤務になりました。その時は以前行ってきた測量業務に従事するものと思っていましたが、まさか東北で業務監理を行ってきた用地交渉に自分が携わるとは思いもしませんでした。東北で得た知識、経験が役に立ち、何とか業務をこなせましたが、まだまだ勉強して知識を習得していかなければならないと感じました。
震災から10年が経とうとしている頃、テレビで震災の特集番組がたくさん放送されていました。テレビでは復興が進んでほぼ終息を迎えている映像が多く取り上げられていましたが、福島県では原発事故の影響で立ち入り制限があり、今でも立ち入り禁止区域が残っています。私も福島県での勤務になってから、まず最初に驚いたのは民家のすぐ横に多くのフレコンバック(主に放射性廃棄物)が積まれていたことです。また、国道6号線をいわき市方面に南進した際、脇道に入る道路は全て封鎖され、建物がある箇所にも全て封鎖ゲートが設置されていました。その光景を見て、悲しい気持ちになったのを今でも忘れることができません。
この気持ちを忘れることなく、復興事業で経験したことを活かし、これからも日々努力していきたいと思っています。
復興現場での学び
平成23年3月11日に東日本大震災が発生してから今年の同日で10年の月日が経過しました。私は平成24年7月から約7年半において東北の復興事業関係に携わりました。
平成24年7月から令和2年1月までは岩手県釜石市にて釜石市復興整備事業に参画し基本設計、詳細設計、換地設計に携わりました。令和2年1月から令和3年3月までは宮城県石巻市にて宮城県道路事業に係る道路CM業務に参画、令和3年4月からは福島県郡山市にて福島県道路事業に係る道路CM業務に参画しています。
約7年半復興事業に携わり色々な経験をしてきましたが、特に濃厚な経験となったのは平成24年7月から赴任した釜石市での約1年間です。
初めて釜石市に足を踏み入れた時は震災から約1年4ヵ月の月日が経過していましたが、津波被害にあった町は、津波により外壁が破壊され鉄筋がむき出しになった建物がぽつぽつと残され、がれき撤去は完了したが基礎だけが残置された宅地が点在、船の船首が突き刺さったままで放置された防潮堤、簡易的に補修はしたがお世辞にも歩きやすいとは言えない歩道など町の被害を肌で感じることが可能な状況で、現地を見ているだけでも「やらねば!」と身を引き締められたことを今でも覚えています。
業務に関しては、日々の作業に追われ毎日夜遅くまでの労働、住居に関しては一軒家に事務所職員5人でシェアハウスと中々ハードな環境でしたが、市職員・事務所職員共に復興という同じ目的に向かっていたこともあり、厳しい環境でしたが個人的には物凄く充実した日々を過ごすことができました。特に市職員と一緒に徹夜までして作業したことは良い思い出です。このように市職員と共に徹夜ができたのも、復興現場という異様な場所で精神に異常をきたしていた可能性は否定できませんが、良好な信頼関係が築けていたからこそと思います。土木技術者である限り高い技術力は必要ですが、復興地のような特殊な場所では特にコミュニケーション能力や物事に対する取り組み姿勢が業務を進めるうえで重要であることを学びました。
私は今年度から福島県郡山市で新たに道路CM業務に参画しており、ゼロからのスタートとなります。まずは受注者の懐に飛び込み良好な関係を築き上げ、事業を円滑に進めることができるよう日々精進していきたいと思います。
震災から10年~支えて頂いた方々へ
令和3年3月11日で東日本大震災の発災から10年が経過しました。この間、弊社は全社を挙げ震災復興事業に携わってきました。
私自身も岩手県釜石市の復興事業に従事してきましたが、平時では経験できない業務や多くの方との出会いは貴重な財産になったと思っています。その間の釜石市復興の様子は補償ミニコミ2面の「かまいしだより」として、平成25年11月号から令和2年2月号まで26回にわたりお伝えしてきました。そこで今回は、あの日から釜石赴任中に支えてくれた家族や支えて頂いた方々について少しだけお話したいと思います。
あの日、平成23年3月11日の午後、私は名古屋市中川区の本社ビル3階にある技術部で、当時担当していた駅前区画整理事業の事業計画書を作成していました。年度末の繁忙期ということもありバタバタしていたことを思い出します。14時46分、名古屋市でも震度3程度の揺れを感じました。あまり大きな揺れではなかったものの長い時間揺れていたため、携帯電話のワンセグテレビでNHKを映しながら仕事を続けていました。15時を過ぎた頃だったと思いますが、音声を消した画面には釜石湾に押し寄せる大津波の映像が突如映し出されました。小さな画面で見た津波の映像は現実味に欠け、何か映画のワンシーンでも見ているようでした。もちろんこの時点では、1年後から釜石市の復興事業に従事し8年間の単身赴任生活を送ることになるとは思いも寄らなかったのです。
発災から1年後に2名の社員を派遣し、2年後には復興事業に参加すべく支店を設け、私も赴任することになりました。会社から釜石赴任を打診された時点で妻には相談して、ちょっと長くなるかもしれないと伝えていましたが、2年が過ぎ3年が過ぎた辺りから「もうそろそろ帰れないの?」と言われ、4年が過ぎ5年が過ぎた辺りからは「家は母子家庭みたいなものだから」と諦めムードになり、6年が過ぎ7年が過ぎると「あと少しで復興できるなら最後まで頑張って!」と最後は応援してくれました。しかし、妻は友人には「8年間も別居生活が続くとは思いもしなかった」と言っていたようで、8年間もの間ワンオペで子育てをやり遂げてくれた妻には感謝しかありません。
子供に至っては、当時小学6年生だった長女は大学生、小学3年生だった次女は高校生、幼稚園児だった三女は中学生になりました。子供達には成長の大事な時期に、月に1度しか帰省できなかった事は申し訳なく思っていますが、現在、反抗期真っ只中(笑)の三女を見ていると、長女・次女とはその多感な時期に離れて暮らしていたことで大きくぶつかることも無く、会えなくて寂しいぐらいの距離感があったからこそお互い思いやる気持ちが持てたのかとも思えてきます。
また、妻の両親にも支えられてきました。特に義父は幼稚園児だった三女の父親代わりで、毎日のように遊んでくれていたようです。反抗期真っ只中の三女は、中学生になった今でも「じぃじ」は特別な存在であり、「バージンロードはじぃじと歩く」とまで言い出す始末です(笑)。
釜石赴任中に私の故郷熊本県益城町で発生した熊本地震では、私の実家も被災し全壊となりました。この時も、会社・同僚はもとより一緒に復興事業に取り組んでいたJV構成員の皆さま、市役所担当課の皆さま、CM事務所の皆さまに支えて頂きました。
このように私が8年間東北の震災復興に集中して取り組めたのは、家族・会社・同僚をはじめ多くの人たちに支えて頂いたおかげです。この釜石市での経験と支えて頂いた皆様への感謝の気持ちを忘れず、今後も様々な業務に取り組んでいきたいと考えています。ありがとうございました。
編集後記
新型コロナウイルスの蔓延が治まらないどころか変異種への変化が進み、ますます厄介な状況になって来ています。
感染を防ぐには、一般に言われているように三密を極力避けるとともにマスクの着用、手洗い、手指のこまめな消毒に尽きると思います。また、人の移動を控えるのも重要です。
新緑の季節になり、行楽に適した季節になりましたが、皆さん、今が踏ん張りどころです。我慢と頑張りで新型コロナウイルス感染症に対抗していこうではありませんか。
東日本大震災の復興が始まって早10年が過ぎました。当社では継続して復興事業に携わることで色々と勉強させてもらっています。
今後も技術の研鑽を怠ることなく、引き続き少しでも皆様のお役に立てるよう努力してまいりますので、よろしくお願い致します。